つらい時に聞く曲

新卒で入った会社で働いていた頃、帰途につく私はコンビニに車を停めて毎日のように泣いていた。

毎日全力で働いて、働いて、悲しみも怒りも落ち込む気持ちもごちゃ混ぜになって、仕事終わりの私は「無」だった。

そんな私を溶かしてくれたのが、辻井伸行「亡き王女のためのパヴァーヌ」だ。

 

日が落ちて、コンビニの明かりだけが光る駐車場。音はそのまま体の中を通り抜けて、それに合わせるように、涙がすーっと流れては落ち、私は拭いもせずそのまま放っておく。

誰にも邪魔されない、ほんとうのわたしを取り戻すための時間。それは気休めでしかなかったけど、毎日「社会人」でいるための、かけがえのない時間だった。

 

damedesu.net

 

 

 

 

 

笑わない人が羨ましい

 

小さい頃からずっと愛想笑いをしてきた。

 

私は人と喋るのが苦手だ。

自分から話しかけるのはまず不可能。

話しかけられたとしても、うまく言葉を返せない。相手の言葉を理解して、それに対して自分の意見を持ち、適切な言葉に変換して返さなければならない、その一連の流れ自体に時間がかかってしまう。

別の要因として、特に小学生の頃は、相手の言葉を聞き取れないことが多かった。(聴覚情報処理障害という病名もあるらしいが、診断は受けていない。)

最初は何回も聞き返していたけれど、それでも聞き取れないことが多く、相手に申し訳なくなってやめた。

 

それから私は愛想笑いをするようになった。聞き取れなかったときや間が持たないときは笑えばいい。

でも今度は周りから「笑い上戸」「笑いすぎ」と言われることが多くなった。それに笑いどころを間違えると、愛想笑いでも不快に思われることがしばしばある。

それでも社会に出てからは、そんな風にはっきり指摘されることもなくなったし、むしろ上司や先輩に対して多少お世辞を言ったほうが可愛がられることもあって、やっと周りに溶け込めてきたのか?と思うようになったところだった。

 

最近、笑わない人にイライラしてしまう自分に気づいた。

仕事には黙々と取り組むので優秀、でも周りとあまり馴染まず、話しかけても一言二言で話が終わってしまう、そういう人を見ると、私の心の底がざわつく。

私は話が続くように頑張っているのに、よく思われたくて笑顔を振り撒いているのに、なんであなたはそのままなの?笑わない人たちが職場で受け入れられていることが私は羨ましかった。羨ましい、場の雰囲気にアンテナを張り巡らせなくても周りに受け入れられることが。

私もそうなりたかった。そうなりたい。

 

怒りの元が妬みだと気づいたとき、自分の理不尽さに恥ずかしくなった。でも同時に、少しスッキリした。

私は本当に人と話すのが好きではないのだ、そう思った。そもそも私がアンテナを張り巡らせたところで、たかが知れているのだし、それなら好きなように振舞った方がいいではないか。

そう思えたとき、少しだけ自分を解放できたような気がした。

 

私は毎日同じ人に会うと気疲れでへろへろになってしまうので、今のところ一般的な就職はできないと思っている。まだまだ気を遣って心をすり減らす日々が続いているけれど、少しずつ変わっていけたらいい。

 

 

Zガンダム

www.z-gundam.net

(事実誤認があったらすみません。)

主人公の描かれ方

ファーストガンダムよりも主人公が良い意味でヘタレに寄っていると思った。どんどんシンジ君(エヴァ)に近づいている。

ファーストでは「二度もぶったな!」「父さんにもぶたれたことないのに!」、そしてΖ「怖いんです。怒鳴る人は。」「一方的に殴られる、痛さと怖さを教えてやろうか!」と言える主人公は、もしかするとこの時代の男性たちを救ったのではないのかという仮説を私は立てている。

ファーストガンダムの放送が1979年、Ζの放送が1985年。
この時代の実社会に、果たして"女々しい"男性が受け入れられるだけの土壌があったと言えるだろうか?

しかし、Ζの主人公には矛盾もある。
自分の名前を「女みたい」と揶揄されると、ガンダムを奪い取り生身の人間に復讐しようとする。結局暴力という男性社会のルールの中で解決しようとしているし、機械VS生身の人間なんてもってのほか。いわゆる"男らしさ"はまだまだプライドの一部なんだなあと思わされるシーンである。

女性の描かれ方

女性の描かれ方に関しては、ファーストよりも酷くなっていると感じた。*1

1.ファに対するカミーユの態度
主人公カミーユの幼なじみであるファ。カミーユが両親を亡くしてからは、ただ一人の家族のような存在になる。二人の年齢は当時17歳ぐらい。
カミーユはファだけにはギャンギャン吠えまくる。甘えられる相手がファだけだということはあるが、同じ内容をクワトロ大尉(上司)には言えないところがひどい。負けず劣らずファも反論するのが救いだが、「またリクリエーションか?」と静観するだけの周りの大人、どうにかしてほしい。

2.ファに求められている女性像
主人公たちが乗る戦艦には、ファーストと同様、数人の幼児がいる。その子どもの世話をするのは、ファーストではフラウ・ボゥ、Ζではファである。*2
フラウ・ボゥは途中から通信士として戦闘に参加する。その間子どもたちは操縦室には入れないようになっていた(はず)。
それに対してファは途中からモビルスーツパイロットになる。ヒロインが戦地に出て直接戦えるようになったことは、ファーストからの進化と言えるかもしれない。
しかし問題なのは、ファ以外に子どもを見る人が一人もいないことである。(強いて言えば医者役の人?)
キャプテンのブライト・ノアは2回「ここは託児所ではない!」と叫ぶ。
1度目はガンダムの整備室に子どもが入ってきてしまい、カミーユとファとブライトの作戦会議が中断されたとき。
2度目は戦闘中、操縦室に子どもが入ってきてしまったときである。
確かに戦艦に子どもが乗っているのはおかしいが、ファだって戦闘に出るしそのための準備も必要なのだから、他に子どもの面倒を見る人を配置しないキャプテンが悪いのでは?(そもそも幼児を戦艦に乗せた人にも問題はあるが)
ただ、登場する味方の女性は全てパイロットであること、ファはパイロットの中では一番年下で経験も浅いことから、この時代の限界とも言えるのかもしれない。でも戦闘中くらい、だれか見てるべきじゃない?
仕事も育児もしなければならないのは、いつの時代も女性だけなんて悲しすぎる。*3

3.強化人間は全員女性
ニュータイプ*4に対抗するために作られたのが、強化人間である。電波のようなものをオールドタイプ(普通の人間)に浴びせ、軍の思い通りに動ける人間を作った。
強化人間は主人公の敵陣営(ティターンズ)にしかいない。そして見たところ全員女性で、男性の技術者に行動や思考を操作される。
人工的に人間を操る時点で人権がない。ましてや自分の意思に関わらず、人殺しの道具にされるのだ。
カミーユだけは、強化人間に対して親近感を持ち、一瞬だが心を通じ合わせる描写がある。
しかしカミーユの心中では、強化人間の女性への恋愛感情(兄妹愛)と、人間として助け出したいという気持ちとが混ざりあっている。
結局恋愛関係にならなければ救えないのだろうか?女性は男性に救ってもらうしかないのだろうか?

4.レコア少尉をはじめとする女性の葛藤
レコア少尉は作品終盤でとても情緒不安定になる。自室の大量の観葉植物を全部処分してみたり、クワトロ・バジーナと仲良くしてみたり。結局「エゥーゴには強い男がいなかった」と言ってティターンズに寝返ってしまう。
思えば敵方に寝返るのは全員女性。エマさん、レコアさん、ハマーン様。寝返るほどの激情を抱えているのは女性ということなのか?

そしてファとレコアは対照的だと思う。ファは"早く一人前のパイロットとして認めてほしい"と一人間として認めてもらうことを願っている。レコアは仕事ができる分、回りからも認められているが、"私を女性として見てくれる人は誰もいない"と思っている。
レコア少尉の描かれ方は、女性パイロットを一人前のパイロットとして描いてるからこその表現なのか?人間として、仕事仲間としてではなく、プライベートとして見てほしいということか?私には少し衝撃だった。そして今もうまく消化できていない。

Ζのテーマ

私はこの作品のテーマは「敵は本当に敵なのか?」ということだと思う。
その理由の一つは、前述した寝返りがあること。寝返りを装ったスパイ行為もある。本当にこいつは寝返ったのか?なぜ?という疑いをどうやって晴らして仲間になるのか。
二つ目は、カミーユと強化人間の心の通い合いがあること。フォウやロザミィがそれに当たる。*5強化人間として操作されていないときは穏やかに話ができて心が通じ合うのに、操作されると敵になってしまう。しかしカミーユは、操作された相手に攻撃されても、和解の道はないのか最後まで探る。これはカミーユと強化人間の一対一の関係だけではなくて、他の味方or敵陣営の人間とも和解できないのか?という疑問に通じると思う。
三つ目は、アムロとシャアの関係。ファーストでは敵同士だった二人が、同じ戦艦に乗って穏やかにコーヒーを飲んでいる…!時代と情勢が違うだけでこうも違うのか…と思った。時と場が異なれば、敵は見方になることもある。微かな希望(もしくは絶望)を感じさせてくれるストーリーだと思う。このグレーな感じを許せないのがカツ。悪者は悪者だろ!?という主張。でも「大人の掟」でも「自由を手にした僕らはグレー」と歌われているので、大人はそんなものかもしれない。

*1:ファーストを初めて見たとき、女性パイロットがいることや、女性が戦艦を操縦していることなどに私は衝撃を受け、"全然古くない、むしろ新しいアニメだ!"と思ったことが大きいかもしれない。その衝撃に比べるとΖはファーストのまま、もしくは退化しているように見えてしまった。私の期待値が高すぎた。

*2:共に主人公の幼なじみで、主人公に淡い恋心のようなものを抱いているものの、気付いてもらえない。むしろケンカのような言い争いをしていることが多い。主人公はヒロインの言葉をあまりまともに受け取ろうとしていないように見える。

*3:ただファーストの場合、主要登場人物たちも"子ども"であるため、幼児たちとの境があまり無かったのかもしれない。そして主要人物が"大人と同じかそれ以上に能力を発揮する子ども"であるという設定により、子どもと大人の線引きが排除されているように感じた。しかしΖは、子どものカミーユが大人のルール(軍隊の規律)に合わせることを強いられる話のようにも見える。

*4:離れていても仲間の危機が分かったり、本来見えるはずのない後ろからの攻撃に素早く反応できたりする、新しい人種

*5:強化人間ではないが、シロッコに盲目的なサラも該当するかもしれない。

ラブライブ!サンシャイン!! 映画「The School Idol Movie Over the Rainbow」、アニメ1期

友人に誘われて、また新しい沼に片足を踏み入れました。

www.lovelive-anime.jp

ラブライブ!シリーズはちらっと見ていたけれど、にこちゃんとまきちゃんが登場するあたりで脱落していた。

でも今回はサンシャイン!!
まずはなにもわからないまま映画を観賞。

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フォトセッションは花丸ちゃんでした。

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色紙は果南ちゃん。

そして自宅に帰ってきて1期の観賞。よかった。



まず、男性の視点が排除されているところがとても好感が持てた。*1
アイドルというと"男性が女性を見る"という構図になりがちだけれど、女子校で誕生したスクールアイドルという設定になっていて、男性キャラはほぼ出てこない。町のお店の店主さんぐらい?
女の子が憧れる女の子を見せてくれる。


この作品のテーマの一つは"普通の子"が"輝く"こと。
特別な子だけがスクールアイドルになるわけではない。

メンバーには、読書と食べることが大好きな子、極端な人見知りの子、堕天使大好き中二病の子といった、教室ではスポットが当たりにくい子もいる。
それに対してリーダーの千歌は明るく元気な性格。これだけ聞くとまさにリーダー然とした子だが、高校に入るまで部活は入っておらず、いわゆる"何も持っていない"少女だった。
その少女がμ's(ラブライブ!無印のスクールアイドルグループ)を知り、私もあんな風になりたい!と願う。
千歌の口癖は「輝きたい!」
これは、何者でもなかった"普通の女の子たち"が何者かになるまでのストーリーだ。*2

そして、サンシャイン!!の舞台は静岡県沼津市に設定されている。
前作のμ'sが東京のアイドルグループならば、今作のAqoursは田舎のアイドルグループ。
それゆえの葛藤も描かれていて、実際に地方に住む視聴者も感情移入できるようになったと言えるだろう。*3


もう一つ重要なことは、何も持たない・個性的な・田舎の少女たちが、変化したからスクールアイドルになれたわけではないということだ。
もちろん活動のなかで成長はするが、食べるのが大好きな子も、人見知りな子も、堕天使な子も、根は変わらない。そのままの性格でメンバーに受け入れられ、"輝いている"ことが特長である。

特に気になったのは、メンバーの中に水泳部とスクールアイドル部を兼部している活発な女の子がいることだ。
従来の運動部VS文化部という構図になることなく、大人しいメンバーとも支え合いながら成長していく。互いに裏で足を引っ張り合うようなこともない。メンバー全員ががありのままの姿で活動し、成長するというのは、とても素敵な形に思える。

また、3年生と後輩たちの関わり方も魅力的だ。
部活動というと縦社会、先輩のいうことは絶対、というスポ根系のイメージもまだまだ廃れてはいない。
しかし、Aqoursは違う。
先輩後輩関係なく、相手をあだ名や◯◯ちゃんと呼び合い、支え合う。そしてリーダーは2年生だ。
ただしリーダーに関してはある事件があり、それが3年生の触れてはいけないタブーになっていた。

結局はそのタブーを1・2年生に知られてしまうのだが、素晴らしいことに3年生は卑屈になることもなく、先輩風を吹かすわけでもなく、自然体でメンバーの一員として加わる。

縦社会を重視するのではなく、仲間としてみんなで一緒に活動することを大切にする形は部活動に希望を見出ださせてくれる。
(私が部活動に対する嫌なイメージを強く持ちすぎているだけかもしれないが)

引き続き2期も見てみたい。

*1:ただし、腰や太もものアップのコマが時折入ることや、学校の制服やアイドル衣装のスカートが極端に短いことは、男性の"視線"と言えるのではないかと思ってしまった。また、鞠莉ちゃんが本人の同意なしにジョークで相手の胸を揉むのも必要か?と思った。機会があれば別記事に書きたい。

*2:ただし、実はみんな多才で、これを全て"普通の女の子"ができることとして見なされると、少し息苦しい。

*3:地方間の格差についてはまた別の問題。

NHKドラマ「平成細雪」

www6.nhk.or.jp

昨年は、古典作品の時代設定を平成に持ってきてドラマ化する企画が多かった。平成が終わりに近づいているからだろう。

実写化において、原作を知る者が一番重きを置く点は、原作へのリスペクトがあるのかどうかということだと思う。画面に半透明の紙を一枚被せて見せられているみたいに、ずっともやもやした気持ちを抱えながら注視することになる。

私もその気持ちで最後までこの作品を見たけれど、最後の最後で落ちました。いい作品だと思いました。


まずキャスティングが絶妙。特に啓坊と妙子。
福士誠治が眼鏡かけて片側髪剃るとあんな品良くうさんくさくなるんか、天才的だと思う。
そして妙子がどこからどうみても妙子。女優さんの名前を二度見した。いい意味で私の知ってる中村ゆりではなかった。ぱっつんストレートがはちゃめちゃに似合う。
井谷さんも井谷さんそのものだった、好き。

時代は平成ということで、原作の"戦争に向かう時局(とその最中)"を"バブル崩壊後の日本"に置き換えたのはなるほどと思った。それでうまくいったとこもあるし、残念なとこもあった。

なんせバブル崩壊後なので、原作のような栄華の名残はあまりない。大きいお屋敷に住んでいて、お手伝いさんがいるくらい?
着物を着るシーンもあったけど、原作ほど頻繁ではない。もう少しいろいろ見たかった。
啓坊が車を持っているのはよかった。現代でステータスを表すとしたら、目に見えるものは車とアクセサリーぐらいかも。
雪子のお見合い会場になる料亭は、名前入りでたくさんでてきてびっくりした。ただ私自身が関西には馴染みがないので、的確なのかは不明。

あと冒頭の「B足らん」のびーが明らかにチョコラBBで吹いてしまった。確かに病気でもないのに自分に注射することは無いもんね。原作ではそれが一種のステータスでもあったけど。*1でも錠剤のサプリメントに置き換えるとか、薬に寄せた方が深刻感あるのにと思ってしまった。

深刻さで言うと、モチーフの一つひとつが小さくなってしまっていると思った。
先述の栄華を象徴するものが少ないこともそう。水害も生命の危機では無かった。腸カタルにはかからないし。幸子の流産も描かれない。

でもその分、登場人物の発言が厳しいものになっている。
私は原作の『細雪』を"腹に据えかねているものがあっても、それを本人に言えない人たちの話"だと思っている。自分で後始末をつけられない人の話。
直接姉妹が言い争う場面は数ヶ所しかないし、ましてや「アンタはこの家の疫病神や!」なんて核心ついたことは言えない。なぜなら家族であり、情があるから、という考え方。血縁による結び付きの強さがテーマだと思う。

それに対してこのドラマでは、当事者たちが直接会話をして始末をつけるという方法が取られている。啓坊と板倉と妙子。鶴子と妙子。幸子と妙子。(雪子と妙子は原作よりも仲良しだ。)
原作の"あったかもしれないけれど読者からは見えないシーン(地の文で説明されるだけ)"を映像化してるのは分かりやすくてよかったと思う。

直接の対話のせいか、雪子ちゃんもよく喋る。
まあ、平成五年の時点で電話が苦手で本当に取り繕えない人がどれだけいたかは分からない。けど原作の雪子ちゃんは家族以外とは本当に全くと言っていいほど喋れなかった。あの雪子ちゃんは生きる時代が違っても、喋れないんじゃないかなあと勝手に思っている。(雪子が大好きなので)
だから元お見合い相手やお見合い相手の娘と二人きりで話すことができるのは、平成だからかもしれないけれど、私は不満だった。

平成には、原作のようなお嬢様なんてもういなくて、自由恋愛どころか"結婚しない自由"が叫ばれる時代。(私は大賛成)
舞台を新しい時代に移したことで、それぞれが言いたいことをはっきり言ってケンカできるようになったのかもしれない。
より胸くそ悪いお話になってます。

ちなみにその頃青春してるのはいまの40-50代?
ずっと気になってたんだけど、「やっぱ好きやねん」はその層には受けるのか?

このドラマを見始めた頃は、平成初頭に青春時代を過ごした人のためのドラマなのかと思ったけれど、最後まで見るとそうでもない気がする。
世間に自分をうまく合わせられないし、合わせたくもなくて時代に抗って、それでも幸せになろうと一生懸命生きてる人たちのお話でした。

*1:自宅に薬をたくさん常備していて、いざというとき珍しい薬の譲渡を交換条件に交渉する場面がある。ただ、原作の医師の頼りなさや非科学性については指摘されている。

谷崎潤一郎『細雪』

 

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (上) (新潮文庫)

 

 

四姉妹のお話と聞いていたけれど、三姉妹のお話かと思った。それぐらい長女とそれ以外の姉妹の関係がドライで、逆に言えば、下三姉妹の関係が強くてびっくりした。親が亡くなっていて長女が嫁いでいるから、長女(本家)VS次女・三女・四女(分家)という構図になりがちだった。

でも、直接会って話し合えば分かり合える描写もある。

幸子は、姉と向い合って座に就いた瞬間から、この数箇月来抱いていた淡い反感のようなものが次第に消えて行くのを覚えた。遠く離れて考えていた間こそ、快からぬ感情も湧いたけれども、こうして差向いになって見れば、姉はやっぱり昔の姉で、何処も変ってはいないのであった。

一緒に生活をしない、ただそれだけで、心の距離も遠くなるんだなと思った。ましてや昔は手紙か電話しか無いのだし。

 

あと私は圧倒的に雪子(三女)に感情移入した。30歳だけど電話もまとまに取れない雪子…!お見合いもそれが原因で駄目になったりする。とても良い。

と、何を云うのやら、雪子の云うことが聴き取りにくくてさっぱり分らない。それは電話が遠いのではなく、雪子の地声が小さいせいなので、彼女にすれば一生懸命咽頭を振り搾っているのだけれども、「果敢ない」と云う形容詞がよく当て嵌まる、細い弱々しい声であるから、電話だと実に明瞭を欠くのであった。

でも子供の世話が得意で、次女(幸子)の子供と仲良く、お母さん代わりになっている。

そして看病も得意。このお話では結構みんな病気にかかるのだけど、雪子は率先して寝ずに看病するし除菌消毒も完璧で女中さんをしのぐほど。

雪子はその大人しすぎる性格もあって、なかなか縁談が纏まらずに(周りが)苦労する。この時代、上流階級のお嬢様には縁談をして嫁ぐしか生きていく術はない。

雪子のような人はどうやって生きていけばいいのかなあ…。すべまよの冬子を重ねてしまった。自分も重ねてしまう。

 

そして四女、妙子…!妙子は性格的に"お嬢様"ではない。悪く言えば世間ずれしている。そのせいで本家からも、時には姉たちからも疎まれる。

時代が違ったら、と思ってしまった。きっと現代だったらたくさん恋をして、仕事をして、充実していただろうな。

女性が一人で自立したいと思うだけで「危険思想」とまで言われてしまう戦前の世の中が地獄過ぎた。

私は白蓮や晶子のような恋多き女性に憧れるけれど、彼女たちがそれを貫き通すには親や兄弟たち家族を犠牲にしなければならなかったんだなあと思うと、生きたいように生きることって本当に難しいなと思った。

 

中巻はまさかの洪水の描写が入ってびっくりした。ちょうど今年は災害が多かったから身に染みた。鴨長明方丈記思い出した。

 

そして朝ドラ『カーネーション』でも出てきた七・七禁令。「生活を脅かす戦争」の描写として秀逸。私が着物や記事の種類に詳しかったらもっと理解できたんだろうな。

夢二美術館で昔、『細雪』の着物の展示があったんだけど…なんで行く前に読まなかったかなー私!!!

歌舞伎の描写もたくさんあって楽しかった。六代目=菊五郎を覚えました。

 

谷崎の文章を読んで思ったのは、めちゃめちゃ描写するな!ということ。これは尾崎紅葉の『金色夜叉』読んでるときにも思った。

対立項があっても、両方の言い分について良心の呵責や葛藤まで包み隠さず書くこと。あるよねーそういうとき、とか、どうしようもなかったよねーとか、読者は自然と寄り添う気持ちになる。行間を読み取らせず全て書いちゃうところが私は好き。

どんなときに誰がどう傷つくのか、わたしは根本では何もわかっていないのかもしれない。経験、小説、アニメ、漫画、Twitterそこらかしこからあらゆるパターンを拾ってきて勉強している感じがある。

小さい頃、私は喋ると嫌なことしか喋らないから黙っていた方がいいんだと思っていた時期があった。小学生のとき、馬が合わない近所に住んでる子とほぼ毎日のように遊んでいた。その子が家から小さい牛乳パックを人数分持ってきてくれたんだけど、私は牛乳が苦手だったので「牛乳好きじゃない」と言ってしまい、その子に「せっかく持ってきてあげたのに失礼ね~」と言われて(もう本当のことを言うのはやめよう)と思った。伝え方が下手だった。

どんなときに笑っていいかもわからないことの一つで、私は喋る代わりに笑ってごまかす子どもだったので、笑い上戸だと言われた。そのうち地頭の良い冷静な男子たちに勘付かれて蔑まれるようになった。

衝動的に笑いを抑えられないときもあった。教室で誰かが怒られているときに笑ってしまったことがあった。私の笑い声が響いて、頭ではだめだってわかってるから「ヒヒッ」みたいな変な声で、恥ずかしいし人として駄目で死にたかった。
怒られたのか涙目で教室に入ってきた部活の先輩を見て笑いそうになったこともある。

それから授業中はできるだけ無表情で、あまり笑わないように心がけていた。そして誰かの反応を見てから同調するように反応した。だから教室で「当てはまる人は手をあげなさい」が苦手だった、私は目が悪くて一番前の席だったから。

有川浩の小説はそういう意味ではすごく勉強になった。同時に「わからない」「私も非難される側の人間では」と思うことがたくさんあって読むの止めてしまった。

私は非難される側の人間では、といつかバレて非難されるのではと思いながらいい子のグループに潜伏する卑怯者だ、今も。